[台湾歴史]インパール作戦に参加した台湾の方々に会ってきた
インパール作戦に参加された台湾の方にお時間を頂戴してお話をお伺いしてきました。
台湾は当時日本領だったので、当時の台湾人はその作戦に日本人として参加していたのです。
目次
インパール作戦とは
インパール作戦とは第二次世界大戦の最悪な作戦と形容されることが多いです。
実際に僕がインパールに行ってきたときの記録と、インパール作戦概要はこちら。
ちなみに15年前に死んだ僕の祖父も参加していました。
その思い出はこちら。
趙中秋さんの話
僕は先日のインパール訪問で想像以上に大きい衝撃を受けて台湾に帰ってきました。
上述リンクの通り既に文章には残したので、15年越しで祖父の供養ができたかなと思っていました。
そんなときに趙中秋さんの存在を知りました。
現在高雄市在住の趙中秋さん、彼もインパール作戦の参加者でした。
当時、インパール作戦は「ウ号作戦」と呼ばれていました。僕たちにとっては「インパール作戦」と表現することが一般的ですが「ウ号作戦」と表現した方が彼の反応が明らかだったのが印象に残っています。趙中秋さんは第15軍(通称:林部隊)に参加して、昭和17年(1942年)にミャンマー(当時ビルマ)に渡ったそうです。
趙中秋さんはこの時の実体験を「台湾人に話したって分かりはしないから、日本人にぜひ話したい、記録を残したい、わかってもらいたい」とおっしゃっていました。
二二八事件の受難者でもあり、当時は地元高雄の山中で4年も身を隠していたそうです。
この関係で趙中秋さんは全く中国語を使いません。
彼は終戦まで台湾語をほとんど使わなかったそうなので、言葉は日本語がメインだそうです。僕と日本語で話をして、僕の妻とは台湾語で話をしてくれました。肝心の僕と妻は中国語で話の内容確認、この時ほど台湾語を喋れないことを恨めしく思ったことはないです。
午前中にお邪魔させていただいたものの、話が弾み、昼食を挟むことになりました。
「今日は調子がいいから箸がつかえるんだよ」と言いつつ、心もとない手元。
スプーンを渡すと「ありがとう」と受け取りつつ、そのスプーンは一切お使いになりませんでした。
こんなところに彼の性格が見え隠れしていました。
帰りはバス停まで奥様同伴で送っていただきました。
奥様も日本語が達者で、お二人で6名もお子さんを育てたそうです。
おこがましいようですが、お二人の立派な人生に頭が上がりません。
蕭錦文さんの話
「インパール作戦に参加された方が台湾にいらっしゃるらしい」
インパール訪問後に某友人にこう伝えたところ「知ってる人がいる」ということで、数々のコネを駆使してご紹介いただいたのが蕭錦文さん。
勉強不足が透けて見えるようで恥ずかしいですが、彼が一部日本人からは大変な有名人だということを後から知りました。というのも二二八記念館で解説をされていたそうで、当時は沢山のファンが蕭錦文さん目当てに訪れていたとのことでした。
台北郊外にお住いの蕭錦文さんのご自宅までお伺いしてきました。
「遠いところまでご苦労様でしたね」と迎え入れていただき、お話を伺いました。
インパール作戦にはビルマ方面軍(通称:森部隊)で参加されたとのことでした。
台湾で志願して軍属になり、シンガポール(当時は昭南島)で訓練を終え、ビルマに4年いたとのことです。そこでマラリアと赤痢にかかり、バンコクで入院、プノンペンに移って玉音放送を迎えたとおっしゃっていました。その後はホーチミン(当時はサイゴン)から船で台湾へ戻ってきたと伺いました。
蕭錦文さんはビルマでマラリア・赤痢にかかった遠因は栄養失調だとおっしゃっていました。
僕もインパール作戦についてはそれなりに調べていましたが、蕭錦文さんが「食べるものがなくて、泥水も飲んだ」とおっしゃったのが衝撃的で忘れられません。もちろん泥水をすすって生きながらえた(それどころかもっと凄惨な状況だったはず)ことは知っていましたが、文章を読むのと、経験者の口から出た声を聞くのとで、感じ方がこうも違うのかと思ったのです。
蕭錦文さんは「殺し合いで物事は解決できない」「戦争はあってはいけない、意味がない」と繰り返しおっしゃっていました。
台湾で日本人が暮らすということ
台湾のここ100年の歴史、知れば知るほど、激動だなと思います。
そこには我々日本人が多く深く関わっています。まさに「切っても切れない」関係。
小籠包は美味しい、マンゴーおいしい、牛肉麺は最高、その背後にはこういった台湾の歴史があるんですね。
ただただ平和であることを願い、平和であれば他はどうでもいいのかもすらしれないなと思いました。
ナイス記事!228記念館今どうなってんだろ….。