[台湾歴史]台湾の二二八事件(228事件)を、わかりやすくまとめて解説
台湾の二二八事件は、台湾に関心があるなら一度は耳にしたことがあると思います。
しかし70年以上前の出来事だし、しばらく社会ではタブーとされていたため、現在ではあまり話題になることがありません。
そこで、この台湾の歴史的大事件をわかりやすさを重視して、簡単に理解できるようにまとめました。
今回の内容はこの事件の概要をメインに、関連施設・関連図書も紹介しています。
この記事を最後まで読めば、一通り理解できるはずですので、台湾をもっと深く理解したい人は是非読んでみてください。
目次
台湾の二二八事件とは
まず、台湾の二二八事件とは、1947年2月28日に台北市で勃発し、台湾全土に広がった内戦(のようなもの)です。
この事件の主な内容は本省人と中国国民党の争いです。
1947年の出来事なので、中華民国が台湾を接収してから1年半後のことです。
(第二次世界大戦終戦直後に、日本が撤退させられて、蒋介石が代わりにやってきました)
結末は、蒋介石の中国国民党が中国大陸から軍隊を派遣してきて本省人を武力で制圧。
戒厳令が敷かれ、台湾人が中国人に理由もなく殺されまくるという恐ろしい大虐殺事件になりました。
また、この事件の2年後の1949年にも、再度戒厳令が敷かれました。
これは解かれることなく世界最長の38年間続き、白色恐怖(白色テロ)と呼ばれれることとなりました。
「1947年の二二八事件」と「1949年以降の戒厳令(白色テロ)」は台湾戦後の二大事件です。
この二大事件は、台湾の暗黒歴史であり、その後の台湾を左右する大きなターニングポイントとなりました。
二二八事件の背景と当時の基礎知識
二二八事件の背景と結末について、上述の通り簡単に説明しました。
次に、改めて、関連する基礎知識を整理します。
なぜなら、背景を理解しないと事件の内容が理解できないからです。
台湾は約50年間、日本だった
まず、台湾は1945年まで日本国の一部でした。
これは日清戦争の結果で清国から割譲されたからです。
1895年から約50年の期間でした。
第二次世界大戦後、日本はポツダム宣言を受諾。
日本は台湾を放棄させられ、続いて中華民国が台湾にやってくることになりました。
これが中華民国の中国国民党です。
この背景は、日本が台湾領有を放棄した後は、連合国たち(アメリカ、イギリス、中華民国)で「日本がいなくなった後の台湾は蒋介石に頼むわ」と、こっそり約束していたからです。
日本が統治する前の台湾は一応清国所属だったので、台湾人は台湾が同胞の元に戻り権利が上昇するだろうと期待しました。
なぜなら、日本統治時代は、台湾人は身分は日本人でも二等国民扱いされていたからです。
本省人と外省人
外省人とは
このようにして、台湾に中華民国人が流入してきます。
この時やってきた中国人を外省人と呼びます。
外省人には中国国民党の軍人・役人以外にも、商売などで移住してきた一般人もいました。
本省人とは
外省人に対して、終戦前から台湾にいた台湾人を本省人と呼びます。
ちなみに彼らは「台湾人」ではありますが、事実上中華民国に吸収されたかたちになったので国籍上は今も中華民国人です。
インターネットもない時代、「中国人」がどんなかを知らない台湾人は現れた中華民国人を見てびっくりしました。
当時の台湾は世界最先端のインフラで、正に先進国でした。
しかし、当時の中国は小汚い後進国だったからです。
「日本に戦争で勝った中華民国はさぞすごいだろう」と想像していたのに、とんでもなくみすぼらしい中国人が台湾にやってきたのです。
びっくりしますよね。
中華民国に吸収された台湾
このように、戦後に台湾から日本人がいなくなり、代わりに中国国民党に支配されました。
前述のように、台湾人は「日本人がいなくなって、台湾がようやく台湾人の社会になる」と期待していました。
しかし、支配層の日本人が中国人に変わっただけで、がっかりしました。
それどころか、当時の中国の役人は汚職・強姦・強盗ばかりで、日本時代より圧倒的に治安が悪くなりました。
とにかく、こうして台湾人は「お前ら、今からは中国人な」となったわけです。
もちろん公用語は日本語から中国語へと強引に変えられました。
(日本語も、台湾語も、客家語も禁止されました)
※日本時代は閩南語の新聞を禁止にするまで40年かけましたが、中華民国になってから中国語以外は1年で禁止にしました。
つまり、1年で台湾人のほぼ全員が「文盲」になり「喋れなくなった」のです。
「台湾人は余計なことを言うな」という施策だったんですね。
本省人と外省人の対立
本省人も、もともと清国所属の漢民族でした。
それでも激動の20世紀前半を日本人として過ごせば、考え方も文化も日本人化するでしょう。
日本の台湾統治は約50年間ですから、日本人として生まれ、日本人として育った人が大半です。
そんなところに小汚い中国人が我が物顔でやって来るわけです。
現代に本省人・外省人というと「出自は違うけどどちらも台湾人」という認識が一般的ではありますが、終戦直後であればそれぞれ「日本人・中国人」と表現した方が感覚的に近しいはずです。
それこそ50年間の日本統治があったため、21世紀の今でも外省人を嫌う本省人は「支那人」と呼ぶことがあります。
つまり、中国人が台湾にやってきて、台湾人は期待はずれに感じました。
外省人も無駄に知識があってクソ生意気でいうことを聞かない台湾人を「日本人みたいでムカつく」と不満を募らせます。
それに、当時は国共内戦。
つまり中華民国の中で中国国民党は中国共産党との内戦をしていました。
なので、台湾で取れたコメなどを中国大陸の戦地に強制的に送ります。
だから、台湾から食べ物などがなくなり、価格が急騰、ハイパーインフレになりました。
その結果、通貨がデノミネーションされました。
この時に今でも使われている「ニュー台湾ドル」が使われ始めました。
つまり中国人が流入して以来、日本時代よりも植民地的な扱いを受け、政治面・経済面で大混乱しました。
これが世に言う「犬が去って、豚が来た」状態です。
二二八事件の始まり
ここまで戦中・終戦直後の時代背景についてお伝えしました。
ここからようやく二二八事件についてです。
二二八事件の始まりは、ウィキペディアによると、
闇タバコを販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。
あくまでもこうなってますが、この時にはもう本省人の不満が爆発寸前で、実質的にはこれをきっかけに大爆発したのでしょう。
事件の発端となったとされる現場では、以下写真のような説明が残るのみです。
僕がちょうど訪れた時には、小さな花が添えられていました。
台北駅から歩いていける場所にあります。
住所:台北市大同區南京西路185巷
二二八事件の経緯
まずは、各地で混乱が起きた
そして、この騒ぎが台北で始まり台湾全体に伝播しました。
台湾人はすでに不満を募らせていたので、色々な要求を中国人の役人に突きつけます。
戦中、NHKの台北支局だった今の二二八紀念館から、本省人が台湾全土の本省人に立ち上がることを呼びかけました。
この時、本省人か外省人か判断をするのに困ったのが「日本語が喋れない原住民」だったそうです。
しかし日本語が喋れなくても「君が代」はみんな歌えたので、「君が代」でどちら側かを判断をすることもあったとのことです。
そして、陳儀の裏切り
陳儀という人は初代台湾省行政長官。
中国から派遣されてきた台湾省長的な役人です。
この暴動を「妥協するから仲良くしようぜ」と台湾人をなだめつつ、裏ではこっそりと蒋介石に軍隊の派遣を要請していました。
2月28日に戒厳令を出し、翌月2日に取り下げました。
しかし3月8日の大陸からの軍隊到着を待って3月10日に再度戒厳令を敷いて、本省人を殺しまくります。
どう考えてもやり方が汚いですが、当時の台湾人はこういう汚い手を使ってくるなんて思いもしなかったのでしょう。
後年、李登輝が新渡戸稲造の「武士道」を解説した書籍を著していますが、陳儀にそれはなかった。
そのくせ、陳儀は翌年、共産党に寝返ろうとしたのがバレて処刑されました。
歴史に残るクソ野郎です。
その後中国大陸で中国共産党が作った中華人民共和国で「国民党に殺された愛国者」って評価を得てるらしいです。
蒋介石の指示
「台湾の騒ぎの鎮圧は陳儀にまかせた」といい、台湾人を殺しまくる指示をした蒋介石。
蒋介石は中国国民党のリーダーです。
台湾であれば「中正紀念堂」の中にある大きい銅像の人。
台湾人を殺しまくる指示を出し、その後中国で政争で負け、台湾に逃げてきた人です。
観光で中正紀念堂によく行きますが、蒋介石がどういう人かご存知でしたか?
この後、台湾海峡を挟み、国共内戦はにらみ合い、そのまま70年経過して今に至ります。
二二八事件から10日間
この事件で多くの方々が犠牲になり、結果、2万から3万人が殺されたそうです。
何度も言いますが、国家の転覆を図るようなクーデターではないのに、中国国民党は台湾人をこんなに多く残虐に殺しました。
当時のエリートである医者や弁護士・日本留学経験がある者が、エリートと言うだけで、捕らえられ、拷問され、殺されました。
またその拷問・虐殺の内容がエグくて。肉体的にも精神的にも空恐ろしい苦痛を与えるんですよ。
僕はその内容を知って以降、ちょっとした痛みを感じなくなりました。
本当にえげつないんですよ。興味ある人は調べてみましょう。
二二八事件のその後
その後、中国国民党が中国共産党に負ける事が濃厚となったこともあり、世界最長の戒厳令が敷かれます。
中国国民党は1949年から1987年まで38年間も台湾でやりたい放題をしました。
気に入らない人がいれば捕まえて拷問して殺す。
台湾人にも仲間の密告を奨励して疑心暗鬼に陥らせる。
こんな恐ろしい時代のことを白色テロ(白色恐怖)と呼んでいます。
外国人の私には言いづらいですが、自他共に認める台湾の歴史上、最大の汚点です。
二二八事件を理解するために
以上、二二八事件についてザッとまとめました。
僕の個人的なバイアスも働いていると思うので、もし興味がある方は関連の施設や書籍で勉強してください。
そして自分なりの考えを持ってください。
なので、次に、二二八事件について僕が知っている施設や図書などをまとめました。
二二八事件と白色テロを理解するための施設
二二八事件と白色テロに関する代表的な施設は、台北に3箇所あります。
[台北市内]台北二二八紀念館
ここは台北市の二二八和平公園にある紀念館です。
「紀年」というのは「記念」と違って、忘れないようにしましょうという意味です。
二二八和平公園は台北駅から歩いても行けます。
ここだけに行くならMRT台大医院駅を出てすぐのところにあります。
当時、ここは台湾放送協会台北支局庁舎として使われていました。
今でいうところの「NHK台北支局」的な存在です。
なので、1945年8月15日の玉音放送もこちらから中継放送されました。
今、この施設内には二二八事件の展示が多くあります。
あまり大きくない施設ですが、資料が多く、ゆっくり見ると1日かかります。
もちろんザッとみたら30分程度で一周することはできます。
平日は入館料が20元ですが、休日は無料です。
日本語の音声ガイドもあるので、ゆっくりと勉強してみると興味深い歴史を知ることができます。
隣には中華民国総統府があり、中正紀念堂もすぐそばにあります。
中正紀念堂は蒋介石の紀念施設です。
蒋介石の像がこの場所を向いているのがなんとも不愉快です。
ちなみに、総督府は日本がある東向きに建てられ、蒋介石は大陸のある西側を向いています。
台北二二八紀念館
住所:台北市中正區凱達格蘭大道3號
[台北市内]二二八国家紀年館
次に二二八国家紀念館です。
ここも台北市内にあり、最寄りはMRT小南門駅です。
建物は日本時代の「台湾教育会館」で、昭和初期のものです。
入場無料です。
中は広いですがあまり展示は多くありません。
2Fがメインで、添付資料の通りです。
1Fにテレビで映像を流している場所があります。
その横にこの本がありました。
中を覗くと、
犠牲者の写真を持った遺族の写真が見開きでひたすら掲載されていました。
「犠牲者3万人」と言われても数字の言葉遊びになりがちですが、この本を見るとこの事件の恐ろしさを実感することができます。
2Fに本棚がありました。
貸し出しはしてないそうですが、椅子があり、自由に読むことができます。
二二八国家紀念館
住所:台北市中正區南海路54號
[台北郊外]白色恐怖景美紀念園区
台北エリアの最後は、郊外の景美に監獄を再利用した白色テロの各資料が展示されている場所です。
ここは当時、本当に使用されていた監獄なので、雰囲気がかなり生々しいです。
中にはいろんな資料があります。
また、収容されていたところも残っています。
台北郊外ですが、MRTも通っているので比較的容易にアクセスできます。
ご興味がある方は是非行ってみてください。
白色恐怖景美紀念園区
住所:新北市新店區復興路131號
[緑島]白色恐怖緑島紀念園区
最後に、白色テロ時代の刑務所である国防部緑島感訓監獄の跡がこちら。
今でこそ緑島は海か綺麗なリゾート離島です。
しかし、当時は政治犯の疑いをかけられた方は島流しにされて、ここに収容されていました。
こちらも景美とおなじ元監獄なので、雰囲気が生々しいです。
アクセスはかなり悪いですが、旅行ついでに行ってみてください。
夏がおすすめ。
白色恐怖緑島紀念園区
住所:台東縣綠島鄉將軍岩20號
二二八事件を理解するための書籍
続いて、書籍を紹介します。
門田隆将「汝、ふたつの故国に殉ず」
まずは、門田隆将さんのノンフィクション。
これはまぎれもない傑作です。
内容は、当時の日本人と台湾人のハーフであった湯徳章さんの物語です。
時代に翻弄された人生で、最後は二二八事件の犠牲になります。
なので、二二八事件の雰囲気についてかなり詳しく描かれています。
著者門田さんの取材と想像に基づいて描写されており、台湾でも一斉を風靡しました。
湯徳章さんのお名前は、台北二二八紀年館の被害者名簿にも見ることができます。
非常に勉強になるので、おすすめの1冊です。
司馬遼太郎「街道をゆく 台湾紀行」
次に、司馬遼太郎の「街道をゆく 台湾紀行」。
歴史小説家の司馬遼太郎が台湾の奥深さにハマり、やたらと詳しく色々と解説をしています。
豆知識や知られざるエピソードも豊富なので、非常に面白いです。
これが30年も前に書かれたなんて信じられないくらい、今も色褪せない名著です。
そのエピソードの一つとして、二二八事件に関しても触れられています。
漫画 台湾二二八事件
二二八事件についての漫画。
今回の記事で何度か引用させていただいています。
この本は僕が「世界で一番手軽に日本語で二二八事件を理解できる」と思う漫画です。
書籍を読むのが一番タメになりますが、この本はとにかく大雑把にわかりやすく全体的に理解することができます。
ページ数もあまり多くなく、ザッと読めてしまうので、手軽に理解するには一番おすすめです。
台湾の二二八事件を理解するための映画
最後に映画を一本紹介します。
侯孝賢「悲情城市」
映画「悲情城市」です。
これは1945年から1949年までの、まさに二二八事件の前後関係を描写した作品です。
当時は中国国民党が戒厳令を敷いていたので長い間タブーとされていた二二八事件を、戒厳令が解かれた直後に制作されました。
戒厳令が厳しく敷かれていたので、台湾人の若い世代は当時この事件について知られていませんでした。
そんな内容なので、台湾で公開されるよりも先に海外で評価を得ました。
「時代」を描いた不朽の名作です。
→「悲情城市」を観たので、あらすじと感想と台湾の歴史をまとめました
台湾の二二八事件まとめ
長くなってしまいましたが、二二八事件は台湾を深く理解するためには必要な知識です。
ところが今の台湾の若者は2月28日をただの連休としか思ってなかったりもするらしいです。
いや、悲しい歴史なんて忘れてしまった方が、知らない方がいいのかもしれません。
でも、まぎれもない事実なんですよ。
この犠牲のもとに、私たちはいま台湾を楽しませていただいているんです。
ちょっと知るだけで、今までとは違った角度から台湾を見られるようになるかもしれません。
最後の最後の最後に、関連書籍で紹介した湯徳章さんの殺害再現ビデオを。
まじで、地獄だったことがわかります。。
かなり衝撃的なので、以下のツイートから遡って見てください。
二二八事件のほんの一部、台南の湯徳章さんが中国人に殺された時の様子の現地再現。彼はエリート弁護士で、台湾人が反乱状態になっているのを落ち着かせたにも関わらず、中国人に無実の罪で捕まって拷問・市中引き回し・公開処刑・死体回収禁止に。その後家族には「やっぱ無罪だったわ」とだけ通知。 https://t.co/rR6U4ZEc9D
— 台湾の牛肉麺好き (@glade_c_sh) February 27, 2020