インパールへの行き方〜インド平和記念碑と作戦戦没勇士之碑を訪問してきた
はいどうも、台湾の旧正月で旅行中の人です、こんにちは。
連休だったのでインドにあるインパールってところに行ってきました。ええ、あの史上最悪な作戦で有名なインパール作戦の。
目次
2019年のインパール作戦
インパールとは
インパールはインド東部にある都市の名前です。
インドはめちゃくちゃ国土が広いのですが、その北東部は北側をブータンに、南側をバングラデシュにえぐられるように細まっています。そしてその東の先にマニプール州がミャンマー国境手前で膨らむようにして存在しています。インパールはその孤立したように膨らんだマニプール州の州都です。ちなみに北東部には、アッサムティーで有名なアッサム地方も存在しています。
インパール作戦とは
ミャンマー(ビルマ)国境近くなので、第二次世界大戦で日本軍と戦った連合軍の拠点になりました。
第二次世界大戦では、ビルマを追われた連合軍の反攻拠点となる。1994年3月、これを攻略してインド侵入を目指した日本軍のインパール作戦が実行され、ビルマ戦線の転換点となった。補給を無視した無謀な戦略で日本軍は大量の死者を出し、戦線は崩壊。連合軍に対する東南アジアでの優位が失われ、以後ビルマを失うなど守勢に回ることとなる。
-wikipedia「インパール」
この「大量の死者を出し」たインパール作戦がどれほど凄惨だったかというと、
7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。
退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた。イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。伝染病に罹患した餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した他、日本軍も動けなくなった兵士を安楽死させる“後尾収容班”が編成された。また負傷者の野戦収容所では治療が困難となっており、助かる見込みのない者に乾パンと手榴弾や小銃弾を渡し自決を迫り、出来ない者は射殺するなどしている。
-wikipedia「インパール作戦」
とまあ、とにかくすごかったらしいです。
オンラインだったらwikipediaとNHKのNスペPlusー無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録が良い感じにまとまってます。
インパール作戦戦没勇士之碑とインド平和記念碑
ということで、インパールには戦没勇士之碑とインド平和記念碑が建立されています。
現地に行ってみた
インド名物と聞いていた野良牛がそこら中にいます。こんな道をずんずん進みます。
なーんにもない平野です。
空港からは大きな道を1直線に10キロほど南下したところにあります。
本当に1本道なので迷わないです。
基本的には平原が続きますが、記念碑の手前2キロ地点にナンボルという町があり、市場なんかが開いています。
それなりに賑わっています。
インド平和記念碑
インド平和記念碑の門に到着
インパール作戦戦没勇士之碑とインド平和記念碑は50メートルくらいしか離れておらず、現地の方の話によると、先に戦没勇士之碑が建てられて、その後にインド平和記念碑が建てられたそうです。英語で説明を受けましたが、“New one”と“Old one”と表現をしていました。
まずは、インド平和記念碑の方から入りました。
なにか荘厳な感じの写真になっていますが、単純に近くで落ち葉を燃やしていた煙が写り込んでいるだけです。
奥に進みます
白い大きな壁に「インド平和記念碑」というプレートが嵌められているだけでした。
正直、あまりに簡素で拍子抜けしました。屏風の形になっているらしいです。
日本政府が金を出して作ったとのことです。
参考リンク:厚生労働省戦没者慰霊事業、インド平和記念碑
インパール作戦戦没勇士之碑
次にこちら、「インパール作戦戦没勇士之碑」です。
後ろに見える丘が「レッド・ヒル」です。当時イギリス軍はそう呼んでいたそうです。
先ほどインド平和記念碑を見学していた際に、どこからともなくオジさんがやってきて、こちらを案内してくれました。
門の鍵を開けて中へ入れてもらいました。
左側に書かれている「ロトパチンの碑を守る会」の、ロトパチンとはこの辺りのエリアの名称です。
順に記念碑を見ていきます。
正面「英霊よ この地で安らかにお眠り下さい」
右側「天下泰平 国土安穏 願以此切徳普及於一切我等与衆生皆倶成佛道」
後ろ「赤丘に我が明日のため骨埋む 日本男兒に今日ぞ捧げん」
赤丘は「レッド・ヒル」の日訳でしょう。
左側「於インパール作戰為散華日本兵建之 一九七七年師走十二日 ロトパチン村民一同」横に速射砲が置いてありました
この戦没勇士之碑の横に速射砲があり、よく見ると、所属などが掘られていた。
砲台アップ画像ですが、よく読めません。
一番下に「大阪なんとか」、その上に「昭和十七年…」と彫ってあるのがかろうじてわかります。
もう一つの記念碑も佇んでいました。
インパールへの行き方
インパールまでは基本的にインド国内線一択です。
ニューデリー、ムンバイ、コルカタから向かいましょう。距離的にはコルカタが近いですが、それでも500キロ離れています。私も今回はコルカタから向かいました。日本から行くのであれば、ニューデリーからの方が乗り換え回数が少なくて済むと思います。
それ以外の方法(バス、鉄道)は、まあ、一般的にはないでしょうね。
ちなみに、国内線にも関わらず、外国人はインパール空港で色々とチェックされます。
しかもパスポートに確認のハンコまで押してくれます。レア!
インパール→コルカタ便では、コルカタでチェックされることはありませんでした。
インパールへ行くための費用
インドの中継各地まで行くのにどれだけ費用が必要なのかが主な問題。スカイスキャナーなどでどうぞ。
その他、コルカタからはエアインディアで往復1万円弱でした。エアアジアを使えばもっと安くいけるはず。
コルカタの空港からは、幌付きの三輪バイクみたいなので200ルピー(300円程度)で行けます。
ちなみに1ルピーが1.5円だと認識して金を使っていました。
その他、インパール関連のこと
インドのビザ、日本だけがやたら安い理由
インドに行くにはビザが必要です。
日本はビザ不要で渡航できる国が非常に多いので、初めてビザを申請しました。また、妻が台湾人なので、妻の分も。すると、日本人向けビザだけがやたらと安いことがわかりました。
ビザ申請料金の価格表
リンク:日本国インド大使館
他の国籍の人たちと比べて、1/10以下の価格だったので、驚きました。
インドと日本の歴史については明るくないのですが、この記事の内容が関わっているのでは??
実際、インパールでは「タクシーの運転手にツーショット写真」「空港職員から握手」を求められました。台湾人の妻が横にいたのに、私だけ。
チャンドラ・ボースとは
インパール作戦は「日本軍とインド国民軍」が「英国軍と連合国軍」と戦いました。
当初は日本軍がマレー作戦を優勢に進めるための補助戦力としてゲリラ部隊的な色彩も強かったが、インド独立運動の英雄の1人であるスバス・チャンドラ・ボースが来日し、イギリス領インド進攻作戦が具体的に検討され始めてから次第に重装備化され、本格的な軍隊となった。大本営の南方作戦に当初にはインドを攻略する計画は含まれていなかったが、現地で工作支援に当たったF機関によってインド独立を考えていた。英国の機密文書から戦勝国にも関わらずインドから撤退したのはガンジーのためではなく、インド国民軍のためであることが判明し、2016年にはモディ首相がインド国民軍の再評価をした。以降は日印の友好・同盟の証となっている。
-wikipedia 「インド国民軍」
恣意的に読むと「日本がインド国民軍を支援した過程があるから、結果としてインドが独立できた」と、とることができます。そうであれば、日本贔屓でも説明がつきます。
また、インド国民軍の指揮者がチャンドラ・ボースという人でした。
今回中継地として利用したコルカタ空港の正式名称は「ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港」です。
チャンドラ・ボースは終戦直後、台湾で亡くなり、西門町の西本願寺で荼毘に付されたそうです。
また、個人的にこの西本願寺のすぐ近くに住んでいたことがあるので、やはり縁を感じずに入られません。
インパールで泊まったホテル
今回、ホテルは空港から記念碑の反対側の市街地にとりました。
2000ルピーで中の上程度でしたので非常に満足です。
ロビーの様子部屋の様子
サンガイコンチネンタルという名称で、booking.comなどにも記載があるので簡単に予約できます。
ここからタクシーの手配もできるので、空港の送迎や、記念碑にいくのも楽チンです。
空港が片道300ルピー程度、記念碑は往復で1000ルピー程度とのことでした。
インパールのイママーケット
市街地には女性のみでやっている市場があり、有名らしいです。
ホテルから徒歩で到着できるので行ってきました。
いかにも「記念のお土産」という形をした指輪を購入しました。50ルピーでした。
インパール作戦に参加した家族の話
実は、僕の祖父がインパール作戦の復員兵でした。
その話を今回の旅行にちなんで文章にしたので、お時間あれば是非ともご覧ください。
インパール作戦に参加した台湾人の話
その後、僕の住んでいる台湾でインパール作戦に参加されていたという方が見つかったので、思わず話を伺ってまいりました。
その時の内容が以下の通り。かなり端折っておりますけれども、お時間あれば合わせてご高覧ください。
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