我が家のインパール作戦
目次
インパール作戦に参加した祖父の話
祖父の急逝
「おじいちゃん、死んだから」
15年前、冬のある日に外出先で電話を取った大学生の僕に母がこう告げた。大正生まれの、風邪を引いても気合いで治すタイプの我慢強い祖父が、突然全身の激痛を訴えて救急車を呼び、そのまま入院がどうのと言っているところで息を引き取った。救急車を呼んでからたった数時間の出来事だった。
祖父と同居していた僕は、学校へ向かったその日の朝も、いつも通り「行ってらっしゃい」と声をかけられたばかりだったのに。
祖父と僕の思い出
反抗期の長かった僕は、祖父とまともなコミュニケーションをとった覚えがあまりない。
覚えていることといえば、悪ガキ仲間と「石を投げてどこまで遠くへ飛ばせるか」を競っていた時のことだ。僕が投げた石が「バリンッ」と大きな音を立てて近所の家のガラスを突き破り、その後、家の主人が血相を変えて我が家に乗り込んできた。
「うちに石投げたの、おたくのお孫さんでしょう」
すると祖父は僕に確認することもなく、きっぱりと答えた。
「犯人はうちのコではない」
僕を信頼していたのか、または庇いたかったのか、今となっては知るすべはない。だけれども僕のために大の大人が根拠もなく物事を断定する行為に、感謝なのか、信頼なのか、謝罪なのか、幼心に整理のつかない複雑な感情を抱いたものだった。ただ、その時の祖父が僕の目にはやたら大きく映っていた。
祖父の我慢強さ
人は死ぬと小さくなるらしい。母からの電話を受けて家に帰ると、不自然にしぼんだ祖父が戻ってきていた。
葬儀の準備をしながら話を聞いた。死因は内臓のガンだったが、すでに全身を侵されており、末期ガンどころの騒ぎではなかったらしい。医者は「こんなになるまでよく我慢していましたね」と驚いていたが、僕ら家族も全く気がついていなかった。
僕はその7年後、台北の留学先で、授業中に強烈な腹痛に襲われた。
とてつもない痛みだったので、授業を早退すればよかったものの「まだ我慢できそう」と耐えていた。さらに突然の尿意にトイレに駆け込むと、人生初の血尿を見た。そのトマトジュースのような深紅の鮮やかさを呆然と見つめながら「これは何かの間違いのはず」と正常な判断を失い、なぜか授業に戻り、ひたすら授業の終わりを待った。
授業後、深刻な状況をようやく認識した僕は、タクシーで病院に向かった。が、途中、腹痛が酷過ぎて、吐いた。こんなのも初めてだった。病院に到着すると、普段から本音を吐露することが恥ずかしいと思う僕は、医者の前でさえニヤニヤと「お腹が痛すぎてきもちわるいっすー」と痩せ我慢をしながら伝えた。「たかが腹痛で救急に来るんじゃないよ」と呆れた医者が、尿検査の検体を見た瞬間にみせた「いやこれヤバイだろ」という表情の豹変っぷりが、あまりにあからさまだったのが今でも忘れられない。
結果、尿管結石だったということがわかったのだが、僕の「強烈な腹痛」は一般的に「想像を絶する悶絶を伴う痛み」らしい。ちなみに即入院、即手術となった。
その状態で授業を受けつつ、更に医者を前によくもまあ余裕の芝居をうってみせたものだと後になって思ったが、きっとこの我慢強さは祖父譲りなのだろう。
たまにこんなことがあるから、数年に一度くらい、祖父のことを思い出す。
そして、今になって思うのだ。
「もっと話を聞いてあげればよかった」
祖父と僕の戦争
僕にとって終戦は「50年前のこと」だった。
21世紀になり、平成も終わろうとしている今、いつの間にか終戦から70年以上も経ってしまった。しかし、物心ついた時に終戦50周年だった僕には、終戦といえば50年前だという印象が強い。数字的にも区切りがいいためか、当時はテレビでもそんな話ばっかりしていた。さらに僕が生まれたのは終戦39年の年だ。「ずいぶん昔のことのようだけれども、意外とすぐそこにあったようにも思える距離感」。今僕が住んでいる台湾の日本統治が51年間だったことを考えると、尚更である。
だからこそ、大正生まれの従軍経験者が身内にいたのはとても貴重だったはずだ。
やはりもっと話を聞くべきだった。
今、僕の妻は台湾人だけれども、もし祖父が生きていたらどう言ったのだろう。「高砂族と結婚したのか」とか「外省人?中国人の子か!」とか、あの時代を生きていた人はどう思うのだろうか。もしかしたら当時台湾にも足を踏み入れていたかもしれない。
もっと色々なことを聞くべきだったけれど、僕の成長は遅すぎた。
祖父のインパール作戦
祖父についてもう一つ覚えているのは、祖父が何かにつけて「インパール作戦に参加した」「撃たれて帰ってきた」と言いつつ大腿の銃創を見せつけてくることくらいだった。子供の僕はそれが一体どんなものだったのか想像もついていなかった。
最近ようやく、その時代のことも多少知識がついてきて、興味も湧いてきた。
2019年、僕の参加したインパール作戦
そんなことがあったから、今回、台湾の連休を利用して、インパールに行ってきた。
インパールには「インパール作戦戦没勇士之碑」と「インド平和記念碑」がある。
訪れると、びっくりした。
予想とは全く違う、こじんまりとした土地の、たいそう地味な記念碑だった。
「英霊よ この地で安らかにお眠り下さい」の碑文を前に、僕たちはゆっくりと手を合わせ、目を閉じた。
落ち着いているはずだったのに、僕の手は微かに震えていた。
記念碑の四方を見ているうちに、感情がどんどん高まった。
普段屁理屈ばかりこねくり回している頭でっかちの僕が、その頭を情緒に鷲掴みにされていた。
僕の心が暴れているのを隣の妻に悟られないよう、カメラのシャターを切って誤魔化した。
それでも帰りのクルマの中でぼんやりしていると、自然と涙が零れてしまった。
見られたかなと思い妻を盗み見たら、妻も泣いていた。
正直、二人とも現場の静謐な空気に飲まれてしまったとは思う。
しかしながら沖縄の戦争遺構や、広島の原爆資料館、サイパンのバンザイクリフ、これまでこれらの場所でここまで心を乱されたことはなかった。
身内に関係者がいるかいないか?こんなにも違うものとは思わなかった。
話ができるうちにもっと会話をすればよかった
これも最近ようやくわかったことだけれども、人は面白い話を聞くよりも、自分の知識経験を話す方が楽しいものだ。
だからこそ、もっと話を聞くべきだった。聞ききたかった。
そう考えていると、今も健在の父母や義父母、ぎりぎり日本時代生まれの義祖母の顔が浮かんだ。
インパール作戦からの帰還船
1泊してインパールを後にした。
コルカタへ向かう機内から訪れた場所が見えたので、記念にしようと急いでカメラを構えた。その写真の右上にはインパール空港がしっかり映っていた。空港の左側から写真左下に斜めに通る大きな道を10キロ左下に下った写真中央左側に、こんもりとした丘が写っている。
それが「レッド・ヒル」、今回訪れた記念碑のある場所。
当時は2926高地と呼ばれていました。
2件のフィードバック